キュラソー・ビザ展 - 日本

『ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の知られざる原点』展



画像: ©JDC / Alyza Lewin / United States Holocaust Memorial Museum
 

この展示会では、広く知られることとなった杉原千畝日本領事の「命のビザ」の原点となり、キュラソー・ビザを生み出した人々に注目します。

その中心的存在でもあった、ヤン・ズワルテンダイク・オランダ領事。彼の息子である、ロブ・ズワルテンダイク氏協力のもと、今まであまり世の中に出ることのなかった物語を紹介します。また当時ズワルテンダイクが愛用していたパイプやインクセット、眼鏡、ヤド・バシェム受賞メダル等を日本で初公開します。

本展は2月21日(火)に駐日オランダ王国大使公邸で開幕。その後、展示物を大使館敷地内の出島ラウンジ(Dejima Lounge)に移動させ、2月23日(木)から25日(土)まで一般公開する予定です。2023年3月16日(木)から5月30日(火)までは、敦賀市(福井県)の「人道の港 敦賀ムゼウム」で展示される予定です。岐阜県や大阪府等、その他の場所でも順次巡回予定です。

ご来場の皆様へ

この展覧会は、あなたを別の時代、別の場所にお連れします。多くの人が生き延びるために逃げ出さなければならなかったヨーロッパの戦争の時代へと。

ユダヤ難民を安全な場所に送り出すために、大きな危険を冒してビザを提供するなど、自分たちにできることをした男女の物語です。

私の父、ヤン・ズワルテンダイクもその一人でした。父は特別なことをしていないと感じていたため、自分の経験を話すことはほとんどありませんでした。オランダ王国大使館のご好意により、父の物語と他の方々の功績をお伝えできることをうれしく、光栄に思います。

彼らは歴史に名を残すにふさわしい存在であり、私たちの時代にもインスピレーションを与えてくれることを願っています。

ご来場ありがとうございます。

ロブ・ズワルテンダイク
 

キュラソー・ビザ ー ズワルテンダイク・オランダ領事と「命のビザ」の知られざる原点

第2次世界大戦中、ナチスドイツとその協力者たちは、ヨーロッパのユダヤ人のほぼ3分の2に当たる600万人を殺害する。

国外への脱出は不可能に思える。他国で生活するには最終目的地のビザが必要だからだ。しかし難民を受け入れる国はほとんどない。

ただ荷造りすればいいわけでもない。国を通過するためには、通過ビザが必要だ。しかし通過ビザを発給されるのは、目的地ビザを持つ難民のみ。

二人のユダヤ難民とオランダの外交官は、南米にあるオランダ領キュラソー島への見せかけの目的地ビザという解決策を思いつく。

オランダ領事のヤン・ズワルテンダイクがキュラソー・ビザを発給し、ポーランド難民のリーダーによりその噂が広まる。杉原千畝日本領事はそのビザを基に、かの有名な「命のビザ」を発給する。

本展覧会では、「命のビザ」の原点となったキュラソー・ビザを生み出した人々に注目して紹介。彼らの努力により、何千人ものユダヤ人が迫害と死から救われた。
 

1930年代 ー 吹き荒れる嵐

1930年代は、苦難の時代である。

1929年、ウォール街で起きた株価大暴落は、国際金融システムの崩壊を引き起こす。これが世界恐慌という経済危機につながる。世界中の人々が職を失い、貧困にあえぐ。

ポピュリズムの指導者たちは、人々の不安と恐怖と怒りを利用し、マイノリティに対する憎悪と不寛容を煽(あお)り、全ては彼らのせいだと主張する。

この状況は、特にドイツで顕著である。1933年、ヒトラーが事実上の独裁者となる。同年、最初の強制収容所であるダッハウが開設される。その後、ドイツは周辺諸国を併合し、ユダヤ人や障害者を含むマイノリティを差別する法律を制定。この法律により、ユダヤ人は市民権を剥奪され、仕事も禁じられ、「ダビデの星」の着用が義務付けられる。

1938年、ナチスはドイツ全土と、併合中のオーストリアでユダヤ人を襲撃し、シナゴーグやユダヤ人所有の家や店舗を破壊。多数のユダヤ人が収容所に送られる。この事件は「クリスタル・ナハト(水晶の夜)」と呼ばれる。
 

ポーランド侵攻 ー 虐殺と裏切り

「わが国は、世界征服を企む二つの強欲な勢力に飲み込まれた。350万人を数え、世界最大のユダヤ人社会を構成しているポーランドのユダヤ人は、今や死の危険にさらされている」
『難民のリーダー、ゾラフ・バルハフティクによる戦後の回顧録』

1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻し、第2次世界大戦が勃発。

ポーランド軍は懸命に戦うものの、高度に機械化されたドイツ軍に劣勢を強いられる。わずか1週間後、ドイツ軍はポーランドの首都ワルシャワの郊外に到達。

冷酷なドイツ軍は、すぐに大虐殺を開始。ドイツ空軍は民間人も難民も容赦なく攻撃。

9月17日、独ソ不可侵条約に伴う秘密協定により、事態は絶望的となる。さらにソ連軍が侵攻し、ポーランド軍は窮地に追い込まれる。

10月6日には、ドイツ軍とソ連軍がポーランドを完全に制圧する。

ポーランドには約350万人のユダヤ人が住んでおり、ワルシャワの人口の3分の1がユダヤ人である。占領下のポーランドにナチスの絶滅収容所ができるのは1942年だが、多くのユダヤ人は自分たちが大きな危険にさらされていることに気づいていた。
 

安住の地を求めて ー リトアニアでのつかの間の休息

「とても恐ろしいことが起きている。全世界がユダヤ人に門戸を閉ざす中、ヨーロッパで荒れ狂う嵐はここまで到達しつつある」
『ミールユダヤ学校の校長、ラビ・エリエゼル・イェフダ・フィンケル』
ドイツの侵攻後、何十万人ものユダヤ難民が東へと逃亡。彼らは着の身着のままで、ひたすら徒歩で移動する。

そして約1万5千人が、中立国であるリトアニアにたどり着く。1940年6月、20万人以上のソ連軍兵士がリトアニアに侵入し、ソ連への併合を開始する。

難民たちは身動きがとれなくなる。ユダヤ人の移民を制限するため、多くの国が厳しい移民枠を設けており、リトアニアからの脱出は不可能だ。大使館や領事館の協力も期待できない。

希望は絶たれたかに見えた。

そんな中、オランダ出身のユダヤ難民ペピー・レヴィンと、ナタン・グットヴィルトの二人が現れこの状況を打開する。オランダの外交官の助けで、彼らは自由への一歩を踏み出す。

ペピー・レヴィン ー 重要な約束

1911年生まれのペスラ(ペピー)・ステルンハイムは、アムステルダムで育つ。聡明なペピーは、ベルリン大学で学び、オランダ語とドイツ語を流暢に話す。

1930年代、ペピーはポーランド系ユダヤ人のイサク・レヴィンと結婚し、オランダ国籍を失う。二人はポーランド第二の都市ウッチで暮らす。レヴィンは市議会議員に選出され、1936年には、息子のナタンが誕生し、前途洋々だ。

しかしドイツ系ユダヤ人に対する残虐行為を見て、ペピーはドイツがポーランドに侵攻することを予期。ペピーはイサクに、もしそうなったら一家を直ちに避難させるよう約束させる。

アムステルダムからペピーの家族が訪ねてきたとき、ドイツがポーランドに侵攻。父親はアムステルダムに戻り、母親と弟はレヴィン一家と合流してリトアニアに急ぐ。

リトアニアを目指し、彼らは真夜中の森を歩き続ける。3歳のナタンは、物音を立てると狼に食われると脅される。

9月12日、ウッチ入りしたドイツの親衛隊の殺人部隊が、ユダヤ人の殺害を開始。ペピーのおかげで、一家は辛うじて逃げ延びる。

キュラソー島 ー 遥かなる希望の島

「在リトアニア・カウナスオランダ領事館は、スリナム、キュラソー島をはじめとするアメリカのオランダ領への入国は、入国ビザを不要とすることをここに宣言する」
『キュラソー・ビザの原文』
リトアニアにいるポーランド系ユダヤ人難民は皆、必死で目的地ビザを探す。成功する人はほぼゼロに近い。しかしペピーには考えがある。

彼女はラトビアのレーンデルト・P・J・デ・デッカーオランダ公使に手紙を書く。元オランダ国民として、一家が行けるオランダの植民地はないかと尋ねる。 南米のスリナムやキュラソー島では、総督の許可さえあれば入国できるとデ・デッカーは返答。しかし許可が下りる可能性はないに等しい。

ペピーは大胆な計画を提案。パスポートに「ビザは必要ない」と書き、入国許可をもらわないというのだ。デ・デッカーはパスポートを送ってもらい、7月11日付で、「ビザ不要」と書いて返信。これは全くのハッタリだが、本物に見える。

7月22日、在リトアニアオランダ名誉領事のヤン・ズワルテンダイクが、ペピーの夫の身分証明書にそれを書き写す。

あと必要なのは通過ビザだ。南米へのルートは、ソ連と日本を経由するものしか残されていない。25日と26日、一家は日本領事館の杉原千畝を訪ねる。杉原領事は、キュラソー・ビザを受理し、日本の通過ビザを発給する。

逃げ道はまだ残されている。

運命の瞬間 ー ナタン・グットヴィルトとゾラフ・バルハフティク

「私たちは地図と地球儀を暗記し、大使や領事に最も複雑な旅行ルートを説明する専門家になる必要があった。ルートがない場合は、とりあえず机上の空論でもルートを確保しておくのだ」
『難民のリーダー、ゾラフ・バルハフティク、戦後の回顧録』
ナタン・グットヴィルトは、オランダのハーグ近郊で育つ。1935年、リトアニアに移り住み、ユダヤの神学校で学ぶ。

グットヴィルトはデ・デッカーとズワルテンダイクに連絡を取りオランダ人ではない友人たちもビザを受け取れるか尋ねる。彼らはナチスドイツやソ連の脅威にさらされている。答えは「イエス」だ。

運命の導きにより、キュラソー・ビザは、多くの人にとって命綱になる。この知らせは急速にユダヤ人たちの間で広まる。

ポーランド人の弁護士で、難民のリーダー、ゾラフ・バルハフティクは、外交官と脱出経路について交渉を重ねていた。だからこそキュラソー・ビザが、通過ビザの基になることを即座に理解する。

ペピーの夫がビザを受け取って2日後の7月24日にキュラソー・ビザを取得。ペピー一家が杉原を訪れた翌日の7月27日、バルハフティクら5人の難民代表は日本領事に面会し、キュラソー・ビザのある全員に通過ビザを発給できないかと尋ねる。

杉原が承諾すると、バルハフティクはリトアニア全土を回り、懐疑的な難民たちに二つのビザを取得するよう説得。二つの領事館には人だかりができ始める。

ヤン・ズワルテンダイク ー モラルを見極めた名誉領事

自分がなすべきことをする。あとは沈黙あるのみ」
『ヤン・ズワルテンダイクが子供たちに語った言葉』
キュラソー・ビザを発給するズワルテンダイク領事は、外交官ではなく実業家だ。1938年、彼はカウナスにある世界最大級のラジオ・電球メーカー、フィリップスのリトアニア支社長に就任する。

1940年5月、デ・デッカー公使から名誉領事就任の要請を受ける。ズワルテンダイクは領事業務については素人だが、これを義務だと考え、承諾する。

例外的状況下である。ドイツは5月にオランダを占領し、オランダ政府はロンドンに亡命。中立国のリトアニアとオランダとの国交は継続。6月14日、ズワルテンダイクが正式に名誉領事に任命される。翌日、ソ連軍がリトアニアに侵攻。

7月には大混乱に陥る。企業は国有化され、銀行、ユダヤ施設、在外公館は閉鎖される。このころ、バルハフティクはオランダ領事館にユダヤ難民を大勢送り始める。

善悪をしっかり見極められるズワルテンダイクは迷わず協力する。2週間で、少なくとも2,345枚のキュラソー・ビザを発給。8月3日、ソ連軍が領事館を閉鎖し、フィリップス社のリトアニア支店を国有化するが、彼は密かに活動を続ける。

危険を冒す ー 外交官特権なしの行動

キュラソー・ビザの発給は、ズワルテンダイクにとって危険な行為だ。一見正式なものに見えるが、本物のビザではなく、必要な入国許可はごまかされている。

オランダとソ連には国交がなく、ズワルテンダイクには外交特権が適用されない。彼の行動に対するソ連当局の出方は予測不可能だ。

その危険性は、大家であるリトアニア人教授とその妻、5歳の娘がシベリア送りになり明らかになる。持ち物はスーツケース1個のみ。多くのリトアニア人知識人が同じ運命をたどる。おびただしい数の人々が、ただ消えていく。

ドイツ軍がオランダを占領。仮にズワルテンダイク一家が無事に祖国に帰国できたとしても、ゲシュタポ(ナチスドイツの秘密国家警察)が彼のしたことを嗅ぎつけるかもしれない。

デ・デッカー公使はその危険を察知。1940年8月中旬に、領事館の記録を全て破棄するよう命じる。ズワルテンダイクの11歳の息子ヤンは、ストーブで記録を燃やすのを手伝う。

ズワルテンダイクの行動の証拠は煙とともに消え去る。全てはオランダ政府にさえも知られぬままとなる。

杉原千畝 ー 諜報員と救世主二つの顔

「外交官として間違っていたかもしれない。それでも私を頼りにしている何千人もの人々を見捨てることはできなかった。私は何も特別なことはしていない。当然のことをしただけだ」
『杉原千畝領事、戦後の回想録』
1939年、杉原千畝領事とその家族はカウナスに到着。ドイツとソ連の軍事活動についての情報収集のため、新たに日本領事館が設立される。

杉原はこの仕事にうってつけの人物だ。ロシア語を流暢に話し、以前は満州でソ連に関する情報を収集したこともある。

杉原はポーランドの諜報機関と協力。ソ連軍に関する情報をポーランドの諜報員らが提供し、杉原が彼らに日本の公用旅券と通過ビザを発給。

この仕事は突然中断される。1940年7月27日、ペピーの家族に通過ビザを発給した翌日、日本領事館前に数百人のユダヤ難民が集まる。

杉原はバルハフティクと、その秘書を含む5名の難民代表を中に招き入れる。そして通過ビザを求める彼らの訴えに、2時間にわたり耳を傾ける。

杉原は外務省の指示を待たず、難民にキュラソー・ビザに基づく通過ビザを直ちに発給。8月末の領事館閉館時には、2,100枚以上のビザを発給している。

旅路 ー モスクワ、ウラジオストクを経由して日本へ

「私たちは何から逃げようとしているのかわかっていましたが、どこに行き着くのかは見当もつきませんでした」
『難民のマルセル・ウェイランド(1939年当時13歳)、「海でなくてどこに」(ドキュメンタリー)のインタビュー、2021年』
二つのビザを取得した難民は、まずモスクワに移動。ここでは、難民というより観光客に近い感覚だったと言う人も多い。。荘厳な新モスクワホテルに数日滞在し、観光を楽しんだ後、モスクワとウラジオストク港を結ぶシベリア鉄道に乗り込む。そしてウラジオストクで敦賀行きの船に乗る。

1万キロを8つの時差を越えて、1週間半から3週間かけての長旅である。頻繁に行われるセキュリティチェックにおびえる難民たちを、オランダと日本のビザが守ってくれる。

ニーク・デ・フォークト ー 最後の救世主

1941年3月、キュラソー・ビザの威力を示すエピソードがある。この月、敦賀港に到着した74名の難民が日本への入国を拒否される。杉原の通過ビザはあるが、ズワルテンダイクの最終目的地ビザはない。彼らはソ連に戻され、グラーグ(強制労働収容所)送りになる可能性が高い。

1940年12月から日本に滞在しているグットヴィルトはこの悲劇を聞き、すぐに神戸のニーク・デ・フォークトオランダ領事に連絡を取る。そして74名のためにキュラソー・ビザを発給するよう彼を説得する。それが功を奏し、74名はウラジオストクから帰国し、日本への入国を許可される。

神戸、そしてその先へ ー キュラソー・ビザの終着点

危険な長旅で疲れた難民にとって、日本は楽園のようだ。多くの難民が神戸にやって来る。ここではユダヤ人コミュニティによる支援組織が、住居や衣食住の手配、役所への取り次ぎなどを行う。

キュラソー・ビザと通過ビザは、ナチスドイツやソ連の脅威から逃れるには有効だが、日本を出るには、本物の目的地ビザが必要だ。必死の模索が始まる。

タデウシュ・ロメルポーランド大使は難民の意思を汲み、各国の在外公館と目的地ビザの交渉を行う。彼の努力により、1,000名以上の難民が、パレスチナ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、中南米諸国などへのビザを発給される。

1941年末、日本が真珠湾攻撃の準備を始めると、残った約1,100名の難民は、日本占領下の中国・上海に強制送還される。第2次世界大戦が終わっても大半はそこに留まる。

語り継ぐべき遺産 ー 「キュラソーの守護天使」

デ・デッカーとズワルテンダイクによるキュラソー・ビザの発給は、杉原にも影響を与える。杉原はおそらく一度も彼らと会うことはなかったが、ズワルテンダイクと数回電話で話した。キュラソー・ビザを握りしめて押し寄せる難民たちのために、手書きのビザ発給が追いつかないので、ペースを落としてくれと頼む。三人の自発的な協力により、何千人もの命が奇跡的に救われる。

1963年、ズワルテンダイクは、ロサンゼルスの新聞に「キュラソーの守護天使 」の記事が掲載され、キュラソー・ビザが本当に難民を救ったと初めて知る。ズワルテンダイクはほっとすると同時に、全てはデ・デッカーの考えと文章が基になっているので、彼こそが守護天使だと謙虚に主張。自身のことはほとんど語らず、自分はただ当然のことをしたと思っている。

1976年にズワルテンダイクが亡くなる直前、彼の息子ヤンは、キュラソー・ビザを持つ難民のほとんどが生き残ったことを父親に伝える。しかしその詳しい報告が届くのは、彼の葬儀の当日である。

1997年、ズワルテンダイクは、命がけでユダヤ人の命を救った非ユダヤ人にイスラエルが贈る「諸国民の中の正義の人」の一人に認定される。

過去からのメッセージ

この展覧会は、思いやり、想像力、そして勇気によって、何千人もの人々を死から救った男女の物語です。大きな危険を冒して多くの人々を救った、少数の人々の物語をご紹介します。

ヤン・ズワルテンダイクが家族に語ったように、彼らはただ正しいことをしようとしただけなのです。

この展覧会は、ユダヤ難民の救済に貢献した全ての人の栄誉を称えることはできません。しかし日本ではほとんど知られていない数名に光を当てることにより、歴史を理解する一助となることを願います。

勇敢な彼らの行動は、時を超えて私たちの心を打つものです。今日もなお、世界中で難民が迫害や戦争から逃れています。彼らの運命は、私たち一人ひとりに、そして全世界に、難民の権利を守ることを訴えているのです。

駐日オランダ王国大使館

企画 / 駐日オランダ王国大使館

編集者 / 平野敦子

デザイン・制作 / 株式会社丹青社

謝辞

本展の開催にあたり、下記の諸機関、個人の方々から、多大なるご協力を受け賜りました。
また、ご協力をいただきながら、ここにお名前を記すことのできなかった多くの関係者の方々に深い感謝の意を表します。

北出明 
西川明徳(人道の港敦賀ムゼウム)
Olga Coolen & Sergio Derks (Philips Museum)
Magnus de Jong
Elyza Lewin
Arlette Stuip
Egbert & Renee de Voogd
Hans de Vries
Faygy Wasyng
Marcel Weyland
Ton van Zeeland
Bert van der Zwan
Edith and Rob Zwartendijk
Embassy of the Kingdom of the Netherlands in Vilnius

図の出典
Alyza Lewin
American Jewish Joint Distribution Committee (JDC)
Anne Frank House
Ewa Rutkowska
Faygy Wasyng
FPG/Getty Images
Narodowe Archiwum Cyfrowe
Nationaal Archief
MeijiShowa
Petras Malukas
United States Holocaust Memorial Museum
Yad Vashem